目を覚ますと今朝は予報通り、どんよりと暗い朝。そして私の頭も肩も予報通り、ズシンと重い。大きな低気圧が遣って来るらしい。天気予報より確実な私の“体予報”である。
明け方、ぐずぐず騒いでいた老犬ムッシュ氏は、どうやら二度寝にハマッテいるらしい。起こさぬようにそっと彼の傍をすり抜けリビングに下りてみると、すでにひと雨降ったのか・・三分咲きの花をつけた梅の小枝に小さな水滴が・・。コーヒーカップを持ったまま暫し、その思わぬ朝のプレゼントに見惚れてしまった。
其々の間合いで細い幹から微かに光って落下していく雫はまるで、“小さな愛の天使”・・思わずロマンチックな物語を託したくなってしまった。
“私って・・愛に飢えトルナ? そうだよ! 今日はバレンタインか”数日前に出かけた街中は昨年にも負けずチョコレート商戦で賑わっていた。『愛』が溢れるのは良い事かも知れないが・・・でも・・なんだか、もう一つ違う!なんて事を思いつつ、人並みに幾つかのチョコを購入。アマノジャクの私はメイン店を外した。(笑)

最近、仏教の本に多く接している。そう、昨年来玄侑宗久氏のご著書と出逢ってから、私の中で『仏教ってナニ?』の思いがむくむくと膨れ上がっているのかもしれない。到底悟れるわけは無いのだが・・日本人にとってキット魂の帰る場所なのかも知れない・・まだまだ手探りの霞の中で・・ソンナコトだけは、見え隠れしている。最近読んだ彼の著書の中で『布施』の事が書かれていた物がある。ご紹介する。

『布施とは、言葉として誰もがしっているだろう、“財施”お葬式や法事のときにお坊さんに渡す金封を思い浮かべるであろう。(略)基本的には布施とは贈与する事。でもそれはお金ばかりではない。笑顔・眼差し・優しい言葉・・・・。
最も理想的な布施を行っているのは我々の体内の臓器かもしれない。胃は食べ物を消化して腸に布施し、腸は吸収した栄養も多くの臓器に布施される。腎臓は浄化された血液を、肺は酸素を血液に寄付している。あらゆる臓器は布施しあう関係にあり、そこでは脳でさえ必ずしも一方的に優位なのではない。どの布施も欠かすことはできず、しかもみな布施してそれを忘れているのである。
人は誰かを愛すると、とりわけ布施したくなるものである。しかし、いろいろと布施した挙句に気づくのは、本当にその人に必要なものは何一つ布施することができないということだろう。命もあげられないし、痛みのない状態だってあげる事はできない。そうなるとただ祈ることしかできないわけだが、もしかするとこの祈りこそ、布施の本質なのかも知れない。』(「私だけの仏教」・より)

目からウロコであった。今までこんな事を考えた事は無かった。

甘いだけが「愛」では無く。目の前に起こる現象だけが「愛」では無く。<布施をしたことさえ忘れる>そんな心に少しでも近づく事ができるだろうか・・
目に見えぬ何かが、この宇宙の中をモノスゴイエネルギーで目的の場所に到達することを信じつつ・・イヤ・絶対に信じて! 多分私流に言えば、それって、『愛』だと名づけたい。おばあちゃんの愛も、おじいちゃんの愛も、両親の愛も、男と女の愛も・・全ての『愛』は深く“想うこと”そこに尽きるのではないかと・・・。
見返りを求めぬ「愛」に到達できるのか?「愛」とは・・・いやはや苦しいものです。春の嵐が訪れようとする中で・・私の中で色々な『愛』の文字が飛び交っている妙なSt. Valentine's Day。

2007年2月14日 Terumi Niki

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